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劇団四季 マンマ・ミーア! WATERLOO RADIO

ジュディ・クレイマー、『マンマ・ミーア!』を語る

プロデューサーであるジュディ・クレイマーが「『マンマ・ミーア!』がこんなにみんなを驚かせたなんて」と語った。

4月でウエストエンドでの『マンマ・ミーア!』は初公演から20年経つことになります。そしてABBAがユーロヴィジョンで優勝してからは45年です。ミュージカル『マンマ・ミーア!』のプロデューサーであるジュディ・クレイマーはベニーとビヨルンを引き込むために説得したことや、映画界への進出について、どのようにメリル・ストリープを引き込んだか、そしてシェールとの新しいプロジェクトについてジョー・ケアードに話します。

世界的現象をになった『マンマ・ミーア!』がわずかな予算しかないことを派手に宣伝することはほとんどありませんでした。ですが、それがまさにプロデューサーであるジュディ・クレイマーが熱意を持っているプロジェクトをまとめるプロセスを描写する方法なのです。

「みんなを食事に連れて行くために、思い切って皿洗いをするのよ」と、ロンドンでの初日の1年前に、クリエイティブチームとのした夕食会を思い出しながら、彼女は語ります。「みんながコースを注文すれば大丈夫だろうけど、アラカルトで食事をすれば私が困ることになるってわかっていたわ。みんながブランデーを注文しだしたときには、もう大失敗だったわ」。

しかし思い返してみても、他の方法をとることはなかったでしょう。「プロデュースというものは、物事を時間通りに予算通りにやるってことにつきるの」と彼女は今、話します。そしてそれはクリエイティブチームとの食事会のことも当てはまります。

正確には4月6日『マンマ・ミーア!』のウエストエンドで初公演からちょうど20年となります。ですが、そのミュージカルがクレイマーの人生の一部になったのは、それよりも遥か前のことなのです。

上写真:ロンドン、ノヴェロ・シアターにて『マンマ・ミーア!』のキャスト、中央にペッパー役Damian Buhagiar

撮影:Brinkhoff Mogenburg

彼女が初めてスウェーデン発のポップグループであるABBAのバックカタログに基づいたプロジェクトを思いついたのは、1980年代に『CHESS』というミュージカルで、ABBAの作曲家、ベニーとビヨルンと一緒に仕事をした後のことでした。

『CHESS』の作詞家ティム・ライスのアシスタントという仕事は、彼女にとって舞台を製作するステージマネジメント業界に入って初めての仕事でした。彼女のABBAの曲への興味は、ベニーとビヨルンと仕事を進めて行く間にますます増していったのです。

「ライスのシアターの会議を全て、まとめていたのは私だったのよ。とてもワクワクする仕事だったし、なにかを創りたいという熱意を持っていたわ」と彼女は話します。「それに私はミュージカルが大好きだったから、ABBAの曲で素晴らしいミュージカルができると思ったの」。

<ミュージカルへの愛>

彼女の劇場への興味の火付け役になったのはミュージカルでした。それは子どもの頃にウエストエンドでのライオネル・バートによる『オリバー!』というミュージカルを見たときでした。それがきっかけで、彼女は弁護士である父親の歩んだ道を歩むことをやめ、ステージマネジメントについて勉強をしました。それから、演劇学校兼、音楽学校である、ギルドホールに行くことにし、そこで一からミュージカルについて学んだのです。

「私たちはミュージシャンと仕事をしたり、外部の製作で仕事をする経験もあったわ。オペラの時もあったわね。おかげでとても良い基礎を築くことができたと思う」。そして、『マイ・フェア・レディ』、『オクラホマ!』、『ロッキー・ホラー・ショー』といったミュージカルから特に強い影響を受けたと語りました。

卒業後クレイマーは、すぐに世界を代表する演劇製作者になったキャメロン・マッキントッシュと初めてミュージカル劇場で仕事をすることになる、レイセスター・ヘイマーケット劇場での仕事を得ました。オールド・ヴィック・シアターの数多くある正統なミュージカルで仕事の経験を積み、マッキントッシュとのコネクションのおかげで『キャッツ』でのステージマネジメントに関わることができました。

彼女はそんな仕事のオファーを得られたことをとても光栄に思っていました (それでも、さらに月10ポンドの昇給するよう交渉したことに彼女自身、満足しています)。ですが、『キャッツ』の裏方での仕事は「はちゃめちゃ」でした。それでもクレイマーがその映画を製作すると決めたのは、その時でした。「私はデスクワークがしたかったのよ」と彼女は言います。ライスとの仕事はちょうど良いタイミングでやってきたのです。

『CHESS』というミュージカルはクレイマーがベニーとビヨルンに近づくきっかけになったかもしれませんが、それは『マンマ・ミーア!』が形になり始める何年も前のことでした。

上写真:『マンマ・ミーア!』オリジナルキャストのリハーサル写真

まず、スウェーデンの人たちが、そのプロジェクトに全く関心を寄せないという小さな問題がありました。ABBAは1983年に活動停止し、ベニーとビヨルンは昔と同じことをすると言うよりはむしろ、違った新しい方向へ向かいたいようだった、とクレイマーは語りました。実際に否定をしたというわけではありませんが。「彼らはいつも優しく寛大で、私の頭をなでながら、いつか戻っておいでと言ってくれていたわね」と彼女は思い出します。

一方で、クレイマーはプロデューサーとしての才能に磨きをかける仕事をどんどんこなしていきました。「ミュージカルを上演するためのレシピみたいなものはどこにもないし、当時の私にはそれをする手段もまったくなかったわ」。

彼女は少し道を外れ、イギリス人監督のマイケル・ラドフォードと1987年の『白い炎の女』という映画で共に仕事をすると、続いて様々なテレビや映画のプロジェクトでも仕事をしました。『マンマ・ミーア!』は、本当にやりたいなら、全力を注がなければならないと最終的に気付くまで、彼女の頭の片隅へと追いやられてしまいした。

「その頃私は自分のアパートを売ったの。すごく小さなアパートだったけど抵当に入れるとかなりの借り入れができたの。手元にお金も少し入ったから、生活がはできたし、『マンマ・ミーア!』を進めることができたわ」と言います。「リスクが大きすぎると思うかもしれないけど、それはまさに私がしたかったことなのよ。だから疑う余地はなかったわ」。彼女は静かに笑いながら、唯一の後悔は、アパートを売ったお金は、ショーに投資できるだけのお金にはならなかったことだ、と付け加えました。

この段階でクレイマーは、ベニーとビヨルンに、歌の権利をもらえるよう説得していました。「ビヨルンは、ストーリーが良ければもしかしたら、って言っていたわね」と話します。「でもいつも“もしかしたら可能かもしれないけど多分ありえないね”だったわ。いつも“ダモクレスの剣”のように、危険や不安が私にのしかかっていたの」。

<ジュディ・クレイマーのQ&A>

Q.劇場関係以外の初めての仕事はなんでしたか❓

A.馬小屋での仕事よ。私は馬に夢中だったの。ラッキーなことに馬を飼っていたから、空いている時間にはいつも馬に乗っていたわ。

Q.プロとして初めての舞台の仕事は何でしたか?

A.レスターにあるヘイマーケット劇場でのパントマイムの『マザーグース』の舞台主任のアシスタントよ。

Q.この仕事を始める頃に、誰かが教えてくれてた良かったのに、と思うことは何ですか?

A.何事も計画通りには行かないってことだわ。

Q.誰、もしくは何が、あなたに最も影響を与えましたか?

A.私は昔からずっと音楽が大好きだったわ。音楽がいつも私には大切たっだし、今もそうよ。

Q.もしあなたがプロデューサーではなかったとしたら、何になっていたとおもいますか?

A.世界をまたにかける馬術競技の障害飛越の競技者か、乗馬選手ね。

クレイマーは、彼女が手掛けるABBAのプロジェクトは、伝記ものというよりむしろ、ベニーとビヨルンの歌に基づいたオリジナルのストーリーだと最初からわかっていました。「彼らの歌はストーリーの一部である必要があった」と話します。「私のイメージは『ザ・ウィナー』だったわ。すごく大好きな曲だったし、今もそう。女性中心のストーリーだと思ったけど、何の話だったのかしら」。

何度か他の作家とうまくいかなかった後、 Bristol Old Vic劇場やブッシュシアターで新しい演目をしたり、テレビドラマ『Casualty』の脚本を書いたりして成功をしていたキャサリン・ジョンソンと共に仕事を始めます。そしてジョンソンは当初慎重に動いていたにも関わらず、プロジェクトは急に進みます。

「私はABBAの歌を基にしたミュージカルを書きたかったかどうかもわかっていなかったのよ。でもジュディの熱意と遊び心が私の心を動かしたの。彼女に火をつけたら誰も逆らえないわ」とジョンソンは話しました。

ベニーとビヨルンは、ジョンソンが考えた、ギリシャの島のある母親と娘、それから3人の父親候補という、ストーリーのアイディアを気に入りました。クレイマーはそのアイディアを他のクリエイティブチームと形にしていったのです。

上写真:ロンドン、ノヴェロ・シアターにて『マンマ・ミーア!』 カテリーナ・グレアム、Sara Poyzer、Ricky Butt

撮影:Brinkhoff Mogenburg

<クリエイティブチームの立ち上げ>

彼女は普通のやり方では行いませんでした。振り付けにAnthony Van Laast、デザイナーにマーク・トンプソンを採用し、後に監督のフィリダ・ロイドにだけは話を持ちかける形で近づきました。「フィリダに話を持ちかけた時もとても普通ではないシチュエーションだったわ。私は、興味ない?という言葉だけじゃなくて、ところであなたのチームがあなたを待っているわよ、って言ったんだもの」。

監督は、瞬時に気があう、ユーモアのセンスがあうと思ったことを覚えていました。そしてその気持ちはクレイマー自身も感じたのです。出来上がったチームは「大きな冒険、そして友情の始まり」だったと監督は話します。何年も一緒に働いたことは、ジョンソンとロイドにとって、とても面白いことでした。

しかし二人の関係は、チームとして楽しい仕事上の関係だけにとどまらず、もっと大きなものとなったのです。今日でもあまりよくあることではありませんが、当時はほとんど聞いたこともなかった、女性がプロジェクトを率いるということは今日の『マンマ・ミーア!』に多大な影響を与えた、とクレイマーは言います。劇中の多数のたくましい女性役の原因になったと言います。

彼女はショーを不朽の名作にしたのは、観客が自分と重ねることができるようなあらゆる年代のキャラクターをステージ上に見ることができたからだと信じています。

観客だけではなく、「私たちもザ・ダイナモスみたいだったの」とロイドは『マンマ・ミーア!』のストーリーの中心になっている友達3人組について話します。「ジュディはいつも色々なものを私たちの中の誰よりも持っていて荷物は少なかったの。そしてキャサリンと私よりも身だしなみに気を遣っていたわ」。

『マンマ・ミーア!』は1999年4月6日に『プリンス・エドワード・劇場』にて上演を開始しました。クレイマーはみんなからその日を選んだことに忠告を受けたことを覚えています。その日はイースターマンデーの翌日で、初日にふさわしくないと。しかしその日にするしかありませんでした。ロイドには他のプロジェクトがあったからです。それに、その日はABBAが『ユーロヴィジョンコンテスト』に優勝して25周年になる日だったので、ショーとっては良い兆しだと思ったのです。

上写真左から、フィリダ・ロイド、ビヨルン・ウルヴァース、ジュディ・クレイマー、ベニー・アンダーソン、キャサリン・ジョンソン 2014年ローレンス・オリヴィエ賞授賞式にて

撮影: デイヴィッド・ベネット

評判は上々でした。「ダークホースだったのね。みんなをびっくりさせたわ」とクレイマーは語ります。しかし彼女は先走って楽観視することはありませんでした。「私は何かを創り上げて、それがうまくいくということを目指していたの。それには、こうすれば絶対にうまくいく、という方法なんてなかったわ。だから、これで半年は生活することができる、じゃあ次は何をしようか、と考えたのを覚えているわ」。

しかし次のことを考える前に、トロントでの公演が決まったのです。もともとは、アメリカ中を半年かけて回る予定だったのが、5年になったので、クレイマーやチームは道中、分かれて上演することになったのです。そして2001年10月にブロードウェイで上演を開始し、そこから約14年上演し続けたのです。

「なにもかも予測していなかったから、私たちはずっと、とても忙しかったわ。大混乱だったわ」とクレイマーは話します。ショーは何年もの間、成功を収め、50以上のプロダクションと、40カ国440を超える都市で公演しました。

その間、クレイマーとベニー、ビヨルンとの関係は、プロダクション会社『リトルスター』ができてからずっと、彼女が2人に歌の権利をくれるよう説得しようとした時と変わりませんでした。「一進一退だったわ。いい考えだと思うの、と私が言うと2人は、どうかな。証明してみてくれなきゃ。と言うのよ。今のところはとてもうまくいっているわ」。

ショーを映画にするという素晴らしいことを考えている間にも、彼女は映画界やテレビ界でも仕事をしていました。「それにはピッタリの人が必要だってわかっていたからね」と言います。

ユニバーサル・ピクチャーズが『マンマ・ミーア!』を映画にしないかと持ちかけてきた時、彼女は今まで長編映画をプロデュースした経験はありませんでしたが、彼女はあまり心配していませんでした。権利を売って、他の誰か主導でプロジェクトを進めるということは一度も考えたことすらありませんでした。

「話をした時には、向こうは私が全力でするだろうことはわかっていたわ。だってそれまでそうしてきたから。とても重要なことね。守ってもらっていることも分かっていたけれど、それでも私は一緒にやるなら、キャサリン・ジョンソンとフィリダ・ロイドとじゃないとダメ!って言ったのよ。今までに映画の脚本を書いたことも映画の監督をしたこともない人たちだけれど。2人とも、いいわよ。ぐらいの感じだったし、それだけだったわ」と彼女は語ります。

ユニバーサルの人たちは、クレイマーとロイドが出した、ドナ役の第一候補がメリル・ストリープだと知って、とても驚きました。しかし、2人はハリウッドの偉い人たちが知らないことを知っていたからです。それはオスカー受賞女優が『マンマ・ミーア!』をブロードウェイで見てとても楽しんだので、そのことをキャストとカンパニー宛の手紙に書いていたのです。

メリル・ストリープは承諾し、そのあとはものすごいスピードで話は進みました。実際に映画を作る話になると、クレイマーは「難しいのは、劇場でみんなが感じたマジックをどうレンズ越しに伝えるかだ」ということに気づきました。映画館で見た人たちが、お芝居を観た人達と同じくらい、引き込まれる感覚を持てるように、クレイマーはフィナーレも盛り込むことにしました。うまくいったわ。と彼女は話します。彼女は2008年公開のマンマ・ミーア!の映画と、人々が最後には一緒に歌ってしまうような続編、『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』のどちらの上映会にも出席しました。

上写真:『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』のキャストとクリエイティブチーム

撮影:James Gillham

世界中で『マンマ・ミーア!』のいくつもの舞台作品を制作しながら、2つの大きなハリウッド映画を作っている間に、クレイマーは他のプロジェクトを進める時間はあまりありませんでした。

「私はあまり仕事を他の人に任せるということが得意ではないみたいね。スパイス・ガールズのプロジェクトをしようとしたのよ。面白そうだったから。でも残念なことにうまくいかなかったわ。」と言います。

<ジュディ・クレイマーの仕事>

★『マンマ・ミーア!』は中国で中国語(マンダリン)で製作された初めてのウエストエンド・ミュージカルでした。

「私たちは先駆けになったの。ある程度、官僚制度や文化の面でどうにかしないといけないこともあるから、いい経験だったわ。中国の人たちは、私たちと一緒にやりながら、ミュージカルの創り方をとても熱心に学ぼうとしていたわね」。

★『マンマ・ミーア!』の映画にメリル・ストリープを起用したこと

「『私たちがメリルより早かった』って書いたTシャツを作ろうと思ったわ。メリルの参加が決まったら、もちろんみんな参加を決めたんだもの」。

★影響力があるということ

「キャメロン・マッキントッシュは私の師匠でした。彼から学んだことを思い出すのが好きなの。いいパーティーを開くこと、どんな時も大切なことだったわ」。

★『Viva Forever!』 ―どうしてうまくいかなかったのか。

そのスパイス・ガールズのプロジェクトは『Viva Forever!』でした。スパイス・ガールズの曲をベースにしたミュージカルで、2012年12月にウエストエンドで初日を迎えました。しかし、評論家に酷評され、7か月後に千秋楽となりました。

史上、最も成功した女性グループの1つを基にし、スター作家のジェニファー・サンダース、そしてもちろん、『マンマ・ミーア!』での経験を生かし、クレイマーが指揮を執っていたのですから、理論上は、ヒットする基準は満たしていたのです。うまくいかなかったことが不思議でした。

失敗の原因は、ミュージカルにしようという考えを思いついたクレイマー自身というよりむしろ、スパイス・ガールズの方と何か関係があったのでしょうか?プロデューサーは「きっとそうだと思う。それとみんなから私への期待が大きすぎたのかも。思っていたより速くことが進んだから、十分に練る時間ももらえなかったの」と言います。

「『マンマ・ミーア!』の時は、派手な宣伝もなかったわ。20年前、『ライオンキング』と同時にオープニングを迎えたの。当時『ライオンキング』はとても大々的に、ウエストエンドにやって来る!って宣伝をしていたわ。私たちは、こじんまりと始めたのよ。もしかすると、『Viva Forever!』も大々的に宣伝しすぎたのかもしれないわね」と続けます。

プロとして、きまりが悪かっただろうことは言うまでもなく、同時に、とてもがっかりしたことだったでしょう。ですが、クレイマーは驚くほど落ち着いていて、穏やかなようです。そして、ポジティブな点に目を向けて、思い通りにうまくいかなかった、たくさんのことのうちの1つとして見ています。「スパイス・ガールズやジェニファー・サンダースと仕事をするのは楽しかったわ。観客も楽しんだと思うわ」。

上写真:『Viva Forever!』 にてLucy Phelps、ハナ・ジョン=カーメン、Dominique Provost-Chalkley、Siobhan Athwal

撮影:Tristram Kenton

『Viva Forever!』での経験から、ポップ・スターとは仕事をしたくないと考えることは、もちろんありませんでした。実際、彼女の次のプロジェクトはショービジネス界で最も名をはせている人のうちの1人と仕事をしようとしています。その人はシェールで、クレイマーは『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』での仕事で知り合ったのです。

「彼女はとても良い刺激を与えてくれるの。活動家で、人道主義者よ。いつもとても忙しい人」と話します。この2人が共にするプロジェクトは、まだ定かではありませんが、シェールの人生を基にしたミュージカルは、すでに現在ブロードウェイにて公演中なので、絶対にありえない、と言えるでしょう。

「もしかすると強い女性を描いた映画になるかもしれないわね」と彼女は明かします。ですが、あくまでも今のところ、です。クレイマーは特に理由もなく、計画を決めたくはないようです。「幸運なことに、私は自分がしたいことを選ぶことができるポジションにいるの。以前のようにお願いしたり、借りたり、盗んだりする必要はもうないのよ」。

一方で、クレイマーには進めていくプロジェクトが山のようにあります。「プロジェクトをプロデュースしたい、というところから始めて、ビジネスにすることができた。責任も伴うけどね。最近ではプロデューサーというより、CEOね。私はあまり人任せにはしない方で、どんどん関わっていくタイプ。アートワークからキャスティング、許可を与えたりね。全部よ」。

さらに微笑みながら、「もしかすると父が関係しているのかも。父は私にとても敏腕な弁護士になってほしいのよ。結局今の私は信じられないほどの仕事をしているからね」と付け加えました。

<ジュディ・クレイマーの履歴書>

生まれ:1957年ロンドンにて

学歴:文学士号 ギルドホール音楽演劇学校 ステージマネジメント科

代表作:劇場作品

・『マンマ・ミーア!』   プリンス・エドワード・シアター (1999年)

・『Viva Forever!』       ピカデリー・シアター (2012年)

テレビ / 映画:

・『マンマ・ミーア!ザ・ムービー』 (2008年)

・『マンマ・ミーア!ヒア・ウィー・ゴー』 (2018年)

受賞:

・ウーマン・オブ・ザ・イヤー (2002年)

・MBE勲章 (大英帝国勲章) (2007年)

・ITVによる映画界ウーマン・オブ・ザ・イヤー(ジュディ・クレイマーとキャサリン・ジョンソン、フィリダ・ロイド3人の共同受賞) (2008年)

*『マンマ・ミーア!』は2019年9月14日まで、ロンドンの『ノヴェロ・シアター』で予約受付中です。

詳細はmamma-mia.comへ。


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