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『CHESS IN CONCERT』セカンドヴァージョン㉚『CHESS』未来へ!<第1回>

「あなたとベニーは自分と自分の音楽を今後どういう方向に発展させるつもり」か、と1976年の暮れに質問されて、ビヨルンは次のように答えている。「いずれ不可避的にレコード以外のメデイアに関わることになると思う。何か、もっと大きな枠組みを持つ作品作りにトライするんだ。一度もやったことのない、自分にとって未知のものを目指す。大事なのは、やる気を出すことだよ。単に新曲を10曲書くのではなく、新しいものに取り組んで新鮮な意欲を回復することだ」。

ビヨルンとベニー(ABBA)が“もっと大きな枠組み”の作品を作るチャンスを得たのは、それからさらに6年後である。それは10年以上も前から温めていた夢の実現だった。

ミュージカルの企画を立てる試みはABBA現役時代から何度かあったが、ほとんど形にならなかった。初めて日の目を見たのが、ミニ・ミュージカル『The Girl With The Golden Hair(金色の髪の女の子)』である。 1977年のヨーロッパとオーストラリアのツアーのために書かれ、20分間の寸劇としてコンサートに組み込まれた。

ビヨルンとベニーは1978年いっぱい本格的なミュージカルの作曲に専念する、とポーラー・ミュージック社(ABBA所属のレコード会社)は77年末に発表したが、その企画はつぶれ、代わりにアルバム『ヴーレ・ヴー』がレコーディングされた。

1980年の初め、曲作りにバルバドスへ行ったビヨルン&ベニーは、大晦日のできごとを描くミュージカルを着想する。バルバドスでは喜劇俳優のジョン・グリースと出会い台本執筆を持ちかけたが、残念ながら断られた。このときのアイディアから唯一実を結んだのが「ハッピー・ニュー・イヤー」と言う曲で、のちにアルバム『スーパー・トゥルーパー』に収められる。同じころ、ルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』をミュージカル化する案も浮かんで消えた。

当時はこのように、ABBAのアルバムを何枚も作る代わりにミュージカルの創作に時間を充てるのは、ビヨルンとベニーにとってかなり現実昧のある選択だった。それが実現までに何年もかかったのは、ABBAの音楽を求める大衆の声が非常に高かったからにほかならない。そしてまた、ABBAという音楽ユニットの枠内にも、まだ開拓すべき余地が多く残されていた。

ABBAからエネルギーが涸れ、大衆人気が下火になったとき、ビヨルンとベニーは初めてミュージカルの創作に本腰を入れだした。そのころには、台本を執筆するパートナーの必要も認識していた。その役を引き受けたのは、イギリス人のティム・ライスである。アメリカ人の演劇プロデューサー、リチャード・ヴォスが仲を取り持った。

ティムは、CHESSを恋物語のメタファーに使ったミュージカルの構想をしばらく前から抱いていた。彼はまた、冷戦時代の束西関係に関心があった「偉人なチェス・プレーヤーの人生は、波乱に富んで劇的なものだ。ポリス・スパスキーとホビー・フィッシャーがレイキャビクで戦った1972年の世界選手権を観て、僕はCHESSのとりこになった。あのとき、このミュージカルの構想が生まれたんだ」。

1976年に起きたロシアのチェス・プレーヤー、ヴィクトル・コルチノイの西側亡命を一部下敷きにして、ティム・ライスは1980年までに5ページのシノプシスを書き上げた。ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』『エビータ(エヴィタ)』などの創作でコンビを組み、ティムともども世界的名声をほした作曲家アンドリュー・ロイド=ウェバーに、ティムはそのシノプシスを見せた。だが、当時のウェバーはミュージカル『キャッツ』の作曲で多忙を極めており、ティムの新しい提案を検討する暇がなかった。

関心を示す作曲家はほかにもなく、ティムは落胆してリチャード・ヴォスに愚痴をこぼした。ABBAのビヨルンとベニーがミュージカルを書きたがっていることを、ヴォスはインターナショナル・クリェイティヴ・マネジメント(アメリカでABBAのマネジメントをする会社)のシェリー・シュルツから聞いていた。あの2人ならいい相棒になるかもしれないと、ヴォスは彼に教えた。

ティムはその話に飛びついた。「近代的な音楽劇のスコアを書くのは、ヒット曲を書くのとわけが違う。だが不思議なことに、僕はなんの疑いも持たなかった」とのちに彼は述懐した。「ABBAのスタイルには、演劇的な要素があるんだ」。

ビヨルン、べ二-、ティムの3人は1981年12月、ストックホルムで初めて顔を合わせた。「僕らはティムを非常に尊敬していたし、ティムの方も以前からABBAの歌のファンだった」ビヨルンが言う。「彼がやってきてレストランで食事をともにして、僕らはすぐさま意気投合した」。キューバとフィデル・カストロを題材にした話など、ティムはいくつかのアイディアを提案したが、ビヨルンとベニーが気に入ったのはCHESS話たった。「あのアイディアを練ることにした」。ティムが言う。「ほかの作曲家に話をもっていくのは中止したよ」。

1982年中、ABBAの具体的な録音計画はゆっくりと、だが確実に新曲2~3曲程度の規模に縮んでいった。その一方で、ビヨルンとベニーはミュージカル~あのころの呼び方で、いわゆる“ロックオペラ”~の企画にますます深く傾倒した。

昔からクラシック好きだったベニーは、心構えにオペラを聴き始めたほどである。「ティム・ライスと協力してオペラを作ろうとしていたから、オペラがどんな構造なのか知りたかったんだ」。ベニーは言う。「ワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』は、最高にのれるね」。

『エビータ』のような作品の構造を見ると、ティムはミュージカルに関してビヨルンやベニーと同じ考え方をしていることがわかる。セリフをできるだけ削り、音楽と歌詞で筋を運ぶ作風なのだ。

1982年11月にABBAがロンドンを訪れた機会にビヨルンとベニーは再度ティムと話し合いを持ち、企画の推進を正式に決めた。また『ジーザス・クライスト・スーパースター』と『エビータ』でティムとロイド=ウェハーのコンビが採った手順にならい、舞台初演より先にコンセプトアルバムを録音することも決まった。

この手順は、ビヨルン=ベニー・コンビにとっても好都合だった。のちにベニーが語っている。「プロジェクト全体を把握しておく必要があったが、僕らのホームグラウンドはレコーディング・スタジオだ。だから舞台に掛ける前に、スタジオで曲を全部聴いておきたかった」。

1983年1月、ビヨルンとベニーはストックホルムのポーラー社内にある屋艇裏スタジオで曲作りを始めた。ティム・ライスの作ったシノプシスを指針にすれば、筋のどの部分でどんな音楽が必要になるか、大体見当がついた。アレンジャーのアンデシュ・エリアスがビヨルン=ベニー・コンビの仕事に初めて大々的に協力し、初期の段階から企画に参加した。

オーストラリア・ツアーのアンコール曲「サンキュー・フォー・ザ・ミュージック」の“意外な”ストリングス・アレンジやアルバム『ヴーレ・ヴー』のアレンジで、すでにエリアスはビヨルンとベニーを感心させていたが、それに加えて、2人が団員になっている男声合唱団マンスレッパルナ(男の唇)の仕事もしていた。同合唱団はメンバーの余暇の楽しみに結成されたもので、誕生パーティなどに出掛けて歌い、エリアスはときおりアレンジで参加した。

ビヨルンとベニーは『CHESS』の作曲を決めると、ハンガリー出身の著名ピアニスト、ヤーノシユ・ショーヨムに作曲の進め方やオーケストラの選択で助言を求め、ロンドン交響楽団を推薦された。そのころ2人は、すでにエリアスの編曲の才を知っていたので、『CHESS』のオーケストレーションをやってみないかと持ちかけた。エリアスはこれほど大きな仕事をした経験がなく、即答しなかった。「家に帰ってよく考え、そして開き直ったよ。やってやろうじゃないか、星に向かって手を伸ばせば最低でも天と地の中間ぐらいには届くだろ、とね。それでイエスと返事した。それから、どんなふうに進めたらいいか考えた。いろんなスコアを研究したり、昔の音楽の教師に相談したり……」。

続く


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